■一日〜七日※
正月・松の内・七草
元日・二日は仕着日(しきせび)といい、遊女屋から遊女に小袖が贈られます。遊女たちはそれを着て年礼に回りました。
この後午後になると茶屋に回ります。これを『道中初め』と言いました。
二日は仕舞日(しまいび)ともいい、基本的に「有給休暇」であったようです。
七日には七草を祝います。
大見世では八日が初見世でしたが、小見世以下は二日から見世に出ていたようです。
吉原独特の風物として、「背中合わせの松飾り」があります。普通戸口から外に向けて置く松飾りを見世の方に向けていました。
道幅を広くするためのもので、仲の町では行われなかった、ともあります。
また、正月から二月の初午まで、大黒舞が吉原中を舞い歩きました。これも吉原独特の行事らしいです。
古くは三が日、庭かまどと言って庭にしつらえたかまどで煮炊きをしたようです。文化の頃までは庭火の習慣として残っていました。
■十一日
蔵開き
蔵を開いて新年の風を入れる、というような意味あいで、現在でも酒屋さんなどでこの時期に行われています。
蕎麦切りなどを祝っていたようです。
■十四日〜十八日
小正月・藪入り
十四日の年越しから十八日までが連続で紋日でした。
うち十五・十六両日のみが大紋日のようです(柳花通誌)。
十六日は藪入りで、吉原でも仕舞日(休日)です。
■二十日※
夷講
見世によっては別の日のこともあったようです。
商売繁盛を祈願し、夷棚を飾り、親戚や知人を呼んで宴席を設けます。
宴席のものに値段をつけて売り買いのまねごとをする風習もあるようです。
夷講は十月にもあります。
この他、二十八日が月並紋日。節分も紋日としている資料もあります(北里見聞録)
■一日
太神楽(だいかぐら)
太神楽は大道芸の一種。
二月の一日から吉原を回ったようです。
一月からという説(吉原)二月初午からという説(江戸吉原図聚)もありますが、吉原大全では一日からとなっています。
■八日
事納め
八日が何の日にあたるのかについて記述している吉原関係の文献が見つからなかったのですが、推察するに事納めのようです。
この八日が紋日になっていない記述もある(北里見聞録)のですが、八日を紋日とするものも複数あります
(享保十八年浮舟草および享保十九年吉原細見)。
事納めは十二月八日とともに「事八日」と言われる正月を中心とする物忌みの日です。両日ともに針供養の日でもあります。
「仕事納め」「仕事始め」とは関係がありませんが、十二月と二月のどちらが「始め」で「納め」かは地域によって違うようです。
江戸ではどうやら十二月が事始め、二月が事納めとしているようなので、ここではこれに従います。
■最初の午の日※
初午(はつうま)
江戸町・京町などで遊女の名前を印した大提灯をつるしたようです。九郎助稲荷が賑わいました。
この他、十五、十七・八、二十八日が月並紋日。
■三日(※四日も)
ひな祭り
上巳(じょうし・じょうみ)の節句なのに大紋日は三日だけのようです。
しかしこの時期は花見で、箕輪あたりから花の時期だけ桜を植え、散ると取り去っていました。
この花の時期がずっと紋日だったようです。
景気のいい見世では内証花見といい、廓内で花見をしたり、外出できたりしたようです。
この他、一日、十五、十七・八、二十八日が月並紋日。
■一日※
衣替え
この日から遊女たちは袷(あわせ)を着ます。
■八日
この他、十五、十七・八、二十八日が月並紋日。
■五・六日※
端午の節句
仕着日。この日から夏衣装になります。
廓内に花菖蒲を飾りました。
現代では子供の日ですが、この日の吉原は十五歳以下の子供を一切入れなかったそうです。
これは、延宝年間にこの日の菖蒲打ち(菖蒲の葉でお互いを叩き合う端午の節句の遊び)でケガをした禿がいたからだといわれています。
■中旬
甘露梅づくり
紋日ではありませんが、この頃吉原芸者たちが新年の年礼として配る「甘露梅」を作り始めます。
現代の甘露梅とは違う物で、梅の種を抜き、そこに香辛料を詰め、紫蘇の葉で巻き、砂糖漬けにしたものだそうです。
この他、一、十五、十七・八、二十八日が月並紋日。
■一日※
富士権現祭礼
一日は通常の紋日でしたが、吉原土手の富士権現の祭礼があり、いつもより繁盛したそうです。
この他、十五、十七・八、二十八日が月並紋日。
■一日
玉菊灯籠(1)
一日から十二日まで、仲の町の茶屋が揃いの灯籠を軒先に飾りました。
これを玉菊灯籠(たまぎくどうろう)と言います。
玉菊は実在したらしい花魁で、正徳年間に全盛を誇っていましたが若死にし、その追善供養のために行われたのがこの玉菊灯籠だといわれていますが、玉菊存命中からこの灯籠の行事はあったようです。
灯籠をつるすのは前月末日夜からのようです。
また、本来無関係な女性の出入りはできないのですが、玉菊灯籠は女性も見物できました。といっても自由にというわけではなく、前もって茶屋から切手(通行証)を貰った女性のみだったようです。
■七日※
七夕
一般家庭同様、吉原でも笹を立て、短冊や酸漿(ほおずき)を飾りました。
■十日
四万六千日
浅草観音の行事で繁盛した日だそうです。
※この日は紋日でないとする本(新吉原史考)もあるのですが、たいていの細見には紋日として記載されています。
※九・十両日と書かれた文献もあります(新吉原史考/柳花通誌)。
■十二日
草市
お盆に備えて吉原でもこの日から草市が立ったようです。
■十三日
髪洗い日
各妓楼で月に一度の洗髪日というのが決まっていたようなのですが、この日は一斉に洗髪を行ったとか。
洗髪の後には、邪気を払うと言われる新藁(早苗に熱湯をかけて干したもの)を髪に結んだという川柳が残っています。
本来藪入りといって奉公人の休日が十六日にあるのですが、十六日は登楼客が多いため吉原では十三日が休日だったようです。
見世はどこも休業で、馴染み客以外は登楼できず、仕舞日(しまいび。客に料金のみ支払ってもらって休業する)であったとも。
細見の紋日一覧に記載されていますが、特殊な書き方で十三は休日、とされています。
■十五日※・十六日※
盆中
盆中。大紋日のため仕舞日となります。
仕着日
仕着とは店主から使用人に対して贈る衣服です。遊女屋でも楼主から遊女に薄衣の仕着せがあったようです。
■十七日
玉菊灯籠(2)
十三〜十六日は灯籠をはずし、この日から月末までは、各茶屋がそれぞれに趣向を凝らした灯籠を飾りました。
※十五日と書かれた文献も有り
この他二十八日が月並紋日。
■一日※
八朔
八朔(はっさく)は農家で台風よけや豊作を祈願するものです。
家康の江戸入りがこの八朔であったとされていることから、吉原ではそれを模して、家康江戸入りを祝ったようです。このあたり、家康との関わりを強調するためのものなのかもしれません。
この日、遊女達はみな白無垢姿となります。
この白無垢の由来にも、以下のように諸説あります。
・高橋という遊女が病中に馴染み客が来たため、当時寝間着であった白無垢姿で迎えに出たところ、これが清楚でいいと評判になったため。
・八朔御祝儀の祝い事には白帷子で登城するという武家社会の習慣を模した。
・八月の冷え込んだ日にたまたま白小袖を着ていた遊女が際だっていたから。
九郎助稲荷の祭礼
九郎助稲荷は吉原でもっとも古い稲荷で、人気がありました。
現在でも合祀されてはいますが吉原神社として現存しています。
次項の俄は、この九郎助稲荷の祭礼であるという説もあります。
俄
即興狂言を俄(にわか)と言います。
仁和嘉などとも書いたようです。
起源は享保年間(1716〜1735・新吉原史考・吉原・吉原艶史)・明和年間(1764〜71)・安永年間(1772〜1781・吉原・江戸吉原図聚)と、いろいろに書かれています。
明和に始まり、一時期中断したものを安永に再興させたとの説もあります(川柳江戸吉原図絵)。
晴天三十日間、賑やかに行われました。
■十四〜十六日(十五日のみ※)
月見
飾り物で山を作ったり、提灯をつるしたり、馴染み客に月見杯を贈ったりしたようです。
■九日※
重陽
いわゆる「菊の節句」です。農村では収穫を祝う日であり、一般家庭では衣替えの時期でもありました。
菊酒(正式版は乾燥した菊の花弁を酒に漬け込むようですが、簡易版は花びらを浮かべます)を作ったり、菊の被綿(きせわた)という菊の露を含ませた綿で身体を拭き長寿のまじないとしたりしました。
吉原独特の祝い事というのは見つかりませんでした。
■十二〜十四日
月見
十三夜。八月の月見とセットになっている後見(あとみ)の月です。
この十三夜は日本独特の風習らしいです。
八月の十五夜を見ておいてこの十三夜を見ないと片見月(かたみづき)と言われて縁起が悪いと言われていました。
吉原ではもちろんこの風習を活用し、十五夜に登楼した客にはがっちりと十三夜の約束も取り付けたそうです。
(片見月自体吉原が発祥だという説もどこかで読んだ記憶があるのですが、農村部や地方にもこの風習はあるようなのでこれは少々考えすぎでしょう。)
■十五日
神田明神祭礼
十五日は毎月の紋日ですが、九月十五日は神田明神の祭礼もあり、賑わったようです。
この他一日、十七、十八、二十八日が月並紋日。
■最初の亥の日
亥の子(いのこ)
玄猪(げんちょ)ともいいます。
十月最初の亥(い)の日に餅を作って食べ、無病息災を祈ります。見世に火鉢が出されるのもこの日です。
この日から翌二月の末日まで、夜中に火の用心を触れ回っていたようです。
民間にもあった行事で、その内容は地方によって様々です。
■二十日
夷講(えびすこう)
恵比寿とも書きます。
遊女が定紋付きの手拭いを配り客に贈ります。
見世によっては、この日に火鉢を出したようです。(新吉原史考)
商売繁盛を祈願し、夷棚を飾り、親戚や知人を呼んで宴席を設けます。
宴席のものに値段をつけて売り買いのまねごとをする風習もあるようです。
この他一、十五、十七、十八、二十八日が月並紋日。
■酉の日
酉(とり)の市
紋日ではないようですが、竜泉寺の酉の市の祭礼で吉原も賑わったそうです。
明治の頃には、この酉の市には誰でも自由に廓に入ることができたようです。
■八日
ほたけ
火除けのまじないに、遊女屋の庭で蜜柑まきを行ったようですが、紋日としては記されていません。
一般でも鍛冶屋など、火を扱う商売の職人がこの蜜柑まきを行ったようです。
■十七〜十八日
秋葉大権現祭礼
水道尻にあった秋葉常灯明の祭のようです。
十七〜十九日がこの祭礼だという説がありますが(新吉原史考)、紋日の一覧表には十九日がありません。
この他一、十五、二十八日が月並紋日。
■八日
■十三日
煤掃き
いわゆる大掃除。普段憎まれている遣り手などを胴上げするという変わった風習がありました。
■十七・八日
■二十日
餅つき
この日の前後に箕輪金杉から餅つき要員(とび職の人でしょうか)が来て餅つきをしました。
島原ではこの餅つきの風習が残っているようです。
また、この日遊女から若い者に対し祝儀として衣服を贈りました。
寛保年間頃は、この日から張り見世をやめ迎春の支度に入ったようです。
二十四日からとする文献(享保十八年吉原細見)、二十三日頃とする文献(吉原大全)二十五日とする文献(北里見聞録)もありますが、年代によって動きがあったようです。
この他一、十五、二十八日が月並紋日。