【はじめに】

遊廓について 吉原とは 庄司甚右衛門(甚内)

【遊廓について】

辞書そのままの意味ですと、『遊廓』は『遊女屋が集まっている地域』となるようです。遊郭などとも書きます。
当時のニュアンスとしては、『公許であること』が『遊廓』の条件であったようです。
江戸時代に『公許』とされていた遊廓は吉原(江戸)・島原遊廓(京都柳町)・新町遊廓(大阪)が三大遊廓として存在し、ほかに丸山遊廓(長崎)など二十数カ所あったと記録にあります。 江戸にあった公許の遊廓は吉原のみです。他の場所は遊女屋が集まっていても『遊廓』とは呼ばず、『岡場所』などと呼ばれていたようです。

『公許』といっても、もちろん公立であったわけではなく、営業許可を得ている、という程度のもので、幕府から保護されていたというようなことはありませんでした。
また、吉原に関してはこの『公許』そのものも正式のものではなく、半ばどさくさまぎれの感があったという説もあります。

【吉原とは】

江戸時代、江戸市中で唯一公許であった遊廓を、吉原といいます。
吉原は、最初に設立された日本橋人形町付近の『元吉原』、千束四丁目に移転後の『新吉原』の2箇所がありますが、『元吉原』はわずか四十年しかなかったこと、明暦の大火により資料のほとんどが焼失したことなどから、『吉原』といえば『新吉原』を指します。

一般によく知られている話では、徳川家康が江戸入りして後、各所に散在していた遊女町を、庄司甚内(しょうじ・じんない)という人物が幕府に願い出て、元和三年(1617)に一つの遊女町にまとめ上げたのが『元吉原』だと言われています。
この設立の経緯については、庄司甚内の子孫が書いた文章が元になっているため、庄司甚内と徳川家康との接触があった等の『箔づけ』的な逸話も書かれていて、信頼性に欠けるとする説もあります。実際に、いくつかの矛盾点があるようです。
明暦三年(1657)、幕府の命により移転し現在の千束四丁目に移転したのが『新吉原』です。

その後『吉原遊廓』は昭和三十三年(1958)二月二十八日の閉鎖まで341年間同じ場所に存在しました。
※福田利子氏によりますと、売春防止法は昭和三十二年(1957)四月一日に施行されましたが、完全実施までの猶予期間が与えられ、昭和三十三年(1958)三月三十一日がその最終日でした。その一ヶ月前、吉原遊廓のすべての業者が廃業しているそうです。

【庄司甚右衛門(甚内)】

吉原の創設者と言われている人物です。
関ヶ原に赴く徳川家康を街道筋で待ち受け、若い女性にサービスをさせたという話があります。
この後慶長十七年に甚内が遊女町設立の請願した際、家康が「ああ、あの時の…」と言ったという逸話に繋がるのですが、これもただの『お話』でしょう。

生没年は不詳。小田原北条家の家臣であったという説もありますが、これも権威付けの嘘らしく、駿府の娼家の主であったと言われています。
しかしかなりの実力者、やり手であったらしく、吉原では『おやじ』と尊敬されていました。

甚内は後に甚右衛門(じんえもん)と改名しますが、これは慶長の頃に鳶沢甚内(とびさわ・じんない)・向崎甚内(こうざき・じんない)という二人の甚内が野盗として名を知られていたためと言われています。
向崎甚内と何らかの抗争があったとも言われています。
余談になりますが、この向崎甚内は番町更屋敷のお菊さんの父親のモデルのようです。

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