【吉原跡地】

で、結局吉原ってどこにあるの

元吉原

最初に吉原ができたのは、日本橋人形町のあたりだそうです。
左図は、洞房語園にある元吉原の図を簡略化したものです。区画割はほとんどそのまま、新吉原に継承されています。
元吉原を囲う堀も「おはぐろどぶ」と称しているようですが、「おはぐろどぶ」は新吉原以降の呼称で、元吉原時代にはそう呼ばれてはいなかったという説もあります。
右側の丸い部分は「溜」とあり、埋め立て後の溜池があったようです。
左右の道らしき場所に橋のような表示がありますが、跳ね橋でしょうか。
また、大門左右の半円形の部分は未詳ですが、埋め立て直後の元吉原は円形であったらしいとのことなので、その名残かもしれません。(元吉原考)
下記の地図情報には中心点が表示されていると思いますが、そこに「大門通り」と呼称のある通りがあります。
ここを入口とし、富沢町・堀留町二丁目・人形町三丁目にかかるエリアが元吉原のようです。
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【親父(親慈)橋】
埋立地であった元吉原は交通の便が悪かったため、庄司甚右衛門が建設させたといわれています。
ただ、初期の図会にはこの親父橋はなく、後年二代目・三代目になってからの建設ではないかといも言われています。(元吉原考)
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【思案橋】
親父橋同様、庄司甚右衛門の建設といわれています。
このあたりで「吉原に行こうかどうしようか」と思案することから思案橋と名づけられたといわれています。
このすぐ近くには「わざくれ橋」もあります。「わざくれ」は「ええい、どうにでもなれ」というような自棄っぱちの意味とか。
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これらの橋は、図会によっては異なる名前で表記されていたりすることもあり、それがどのような事情なのか、あるいは単なる誤記なのかは、はっきりとしないようです。

新吉原

元吉原にくらべると、こちらのほうは探すのがはるかに楽です。
Yahoo!地図情報の、水色のエリアがだいたい新吉原になります。
吉原の地名は地図からは消えましたが、交差点やバス停などにその名がまだ残っています。
下記の地図の中心点から左側に、まだ五十間道のカーブがそのままになっています。
日本堤、馬道といった当時の呼称も健在です。
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では、元吉原と新吉原の位置関係はどんなかんじでしょうか。
ウェブマップでは二箇所にポイントをつけられないので、人形町を中心点にすえて、1/75000での表示です。
「台東区」の「東」の文字のあるあたりがだいたい新吉原の位置です。
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これだけの距離を、町がひとつまるごと移動してしまったわけですから、けっこうすごいことなんだなあと改めて驚きます。
このように地図を見ると、元吉原も新吉原も、江戸の北にあったから北里(ほくり)と呼ばれていたわけではないことが実感できます。
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