【甘露梅】
吉原名物の甘露梅について。
『甘露梅』とはなんぞや?
- ■甘露梅をどう読むか
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まず、『甘露梅』をどう読むか。
基本的には『かんろばい』らしいのですが、現在『かんろうめ』と読ませる商品もいくつかあるようです。
- ■甘露梅には2種類あるらしい
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1つには、吉原で年玉に使った、梅の砂糖漬け。吉原名物とされています。
もう1つは、餡を求肥(ぎゅうひ)でくるみ、さらに梅酢につけた紫蘇の葉でくるんだもの。安政3年(1856)、小田原城主大久保忠愨(ただなお)の命で、地元の和菓子が作り出したと言われています。
ここでは、前者のほうの話をいたします。
年玉としての甘露梅
- ■年玉
- 本来は正月、仲の町の茶屋で、贔屓客への年玉(年礼)として贈ったもののようです。
砂糖が貴重な時代のものですから、かなりの贅沢品だったのではないでしょうか。
また、茶屋から甘露梅を贈られることが自慢の種にもなっていたようです。
ですが、実際には遊女屋や、他の茶屋でも作っていたらしく、廓内の店(後述の山口屋)で売られていたこともあるようなので、実は買って手に入れた甘露梅を、茶屋から贈られたものだとホラを吹いて自慢した人もいるのかも…?(笑)
- ■製作
- 毎年五月中旬から、廓中の茶屋が一斉に甘露梅の製作を始めます。
芸者衆が駆り出されて、青梅に紫蘇を巻いたりしていたようです。
遊女屋では新造から花魁まで参加させられました。
製法にもいろいろあったようで、梅の種を抜かないで作るのは粗末だとか、いろいろと言われているようです。
夏に作られた甘露梅は、砂糖漬けにして密封し、翌々年の正月に使用されます。ほぼ一年半、かかるということで、ずいぶんと手の込んだ物だと言えましょう。
うっかりカビさせたりしないよう、管理も大変だったようです。
- ■焼き餅のタネにも…
- 贅沢品・自慢のタネでも、甘い物はやはり女性が好むことが多いものです。
亭主が貰ってくるのは癪だけど食べたい…というおかみさんも多かったのではないでしょうか。
資料の中の甘露梅
- ■守貞謾稿
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甘露梅
山口屋某ニテ賣(うる)之。蓋(けだし)、仲ノ町茶屋トモニ自家製也。
桐折、大サ長四寸、幅二寸八分、高二寸、蓋(けだし)、上ケ底ニテ、梅一層、凡(およそ)二十四顆(つぶ)ヲ納ム。
柔核ノ小梅ニ、一顆毎(ごと)ニ紫蘓(しそ)葉ニ包ミ製ス。
正月、遊客(ゆうかく)得意ノ宿ニ往(ゆ)クニ、年玉ノ進物皆必ズ用之、他品ヲ贈ルコト無之。
- ■料理早指南大全
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青小梅塩につけおき、付かりたる時、出して打わりたねをとりて、そのあとへ朝倉山椒或は粒こせうなどを入れ割りたる梅を合わせて紫蘇の葉にてつゝみ、さたうみつに酒をくはへてつくるなり。夏より冬まで目張しておくべし。風入ればかびの来る者也。但したねをぬかずにするもあれどそまつなり。
- ■川柳
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甘露梅女芸者の加役(かやく)なり…製作に芸者が駆り出されたことを指しています。
寺からと女房をだます甘露梅…お寺から貰ったと白々しい嘘。
甘露梅内儀の口に唾がたまり…悔しいけど食べたいという気持ちでしょうか。
牢見舞巻せんべいやかんろ梅…どちらも吉原名物。座敷牢に入れられたどら息子への見舞い。
平成甘露梅
- ■甘露梅種々雑多
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とにかく現在、『甘露梅』という商品名の品物は多数ありました。
求肥の甘露梅をはじめ、梅をシロップ漬けにしたもの、紫蘇巻きの梅干し、シロップ漬けの梅を使ったゼリーやケーキなどなど…
吉原風の甘露梅はごく少数のようです。
- ■新潟に甘露梅あり
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その中で、サイト上で甘露梅を『少々艶っぽいお菓子』として販売しているお店が新潟にありました。
小川屋さんです。コンテンツ内『「昔の味」伝承会』によると、なぜ小川屋さんで吉原の流れをくむ甘露梅を作るようになったのかは不明だそうです。
吉原には北国生まれの女性が多かったようですが、もしかして小川屋さんのご先祖はそんな遊女たちにモテモテだった…!?かどうかは、知りません。現社長はダンディな方ですが(笑)。
- ■現物を入手
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速攻で小川屋さんにメールを出し、くだんの甘露梅を注文してみました。同時にサイト掲載の許可もお願いという、やや強引な展開。
ひとつの袋に4粒入っいて、24粒で1,890円。
味見をしたがる母を制し(笑)、写真撮影をしてみました。
箱などの外観は、小川屋さんでご確認ください。
はるかに美しい写真が掲載されていますから。
これももう少し美しく盛りつけたかったんですが形をはっきりさせたかったので…
かじってみると、案外はっきりとした歯応えがあります。もっとフニャフニャしているかと思っていました。
塩味を感じるのは、梅を塩漬けにするという上記の方法を取っているのでしょうか?
種は綺麗に抜き取られています。
紫蘇は丁寧に梅に巻かれていて、現代でもこれはかなり手間のかかるお菓子なのではないかなあと思われます。
ましてや砂糖が貴重品であった当時なら、相当の贅沢品になるのは当然でしょう。
こういうものは当時、やはり女性に好まれたと思うのですが、贔屓客の家族にあてての進物だったのでしょうか?
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