【差別と吉原】

吉原は、差別された土地でありました。
過去に勝手に定められた身分のために、いまもなお社会的に差別され続けている人々がいることは、お客様もご存じのことと思います。
吉原の者たちもまた、そんな人々でございました。
吉原の遊女たちは、くるわを出られれば町人として暮らしてゆけます。
けれど、吉原で働く男たちは、「四民の下」とされ、吉原から去ったのちも差別を受けたのでございます。

俗に、「士農工商穢多非人」という言葉があります。
江戸時代の差別を表す言葉として、皆様も社会の授業などで教わったのではないでしょうか。もちろん現代においては使うべきでない言葉であり、「士農工商」あるいは「士農工商・その他の人々」などというように教わった方もいらっしゃることと思います。
現代では、漢字そのものが差別的であるとし、「えた」「ひにん」とかな表記をしている場合もあるようです。
ですが、江戸時代、「士農工商」という言葉は存在しなかったという説もあり、事実「士」の身分は上であったとしても、「農工商」における身分差別はありませんでしたし、「工」、すなわち職人の中には、職種によっては差別を受けた人々もいました。
この区分の中に、「公家」「僧侶」「医師」「手習い師匠(教師)」などがないことなどから考えても、この区分が実に大雑把で、正確ではないことは確かなようでございます。
明治政府が、近代政策の良さを誇示したいがために旧幕時代の政策をおとしめた──と考えるのは、うがちすぎでしょうか。
同様に、同じように差別待遇を受けてきた人々も、単純に穢多・非人という二種類だけの区分にあてはめることはできませんでした。
職種的には非人の支配下にありながら、立場は町人であった「強胸(ごうむね)」などがそのいい例です。

吉原の男たちも、この区分にあてはまらない人々でした。明確な差別身分ではなかったにせよ、町人として扱われることはなかったのです。
恒例である町奉行への新年の挨拶でも、吉原の名主は一番最後に回されています。
また、これも恒例である江戸城でのお祝い事にも、吉原の名主だけは招待されませんでした。
ほかにも、家を買ったり、株を買ったりすることができない、といったような差別があったようです。

女を食い物にする商売なのだから蔑視されて当然、という考え方もありましょうが、こんな川柳が残っております。
「子を拾う側から親は拝んでい」
この句の意味がお判りになりましょうか。当時、吉原者と同じように身分差別をうけた人々の中には、その身分から抜け出せる可能性のある人と、子孫までがずっと同じ身分差別を受けなくてはならない人々がいました。
そんな人々は、娘が生まれた時、吉原の女衒に娘を託したのです。
いくたりもの女衒を通し、その出自を不明にして買われた娘は、遊女にこそなりますが、運良く吉原を出ることができれば、差別身分から抜け出し、町人となることができたのでございます。

これは素人考えではありますが、それが吉原の役割の一つであったのではないでしょうか。もしお詳しいお客様がおいででありますれば、お考えをお聞かせ願いとうございます。

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