【外八文字】
花魁道中で花魁が行う特殊な足運び「外八文字(そとはちもんじ)」について。
はじめに
- ■花魁道中とは
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道中そのものの歴史は古く、元吉原の時代にも行われていたようです。
その当時は客が遊女屋に行く前に「揚屋(あげや)」という店にあがり、遊女を指名し、遊女が揚屋にやってきて一泊する、という風習で、この遊女がやってくる行程を旅に見立てて道中といいました。
後に揚屋での宿泊がなくなり、衰退する頃には、茶屋にあがった客が遊女を呼び出し、ともに遊女屋に無効行程が「花魁道中」となりました。
- ■外八文字
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この道中の際に花魁が行う特殊な足の運びが「外八文字」です。
多くの風習同様、この外八文字も京都の習慣を模したものです。
外八文字と内八文字
- ■内八文字(うちはちもんじ)
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京都の道中は、内八文字という歩行方法でした。
外側に足を踏み出す外八文字と異なり、内側に足を踏み出す方法です。
江戸吉原においても、元吉原〜明暦の頃までは内八文字を行っていました。
- ■外八文字(そとはちもんじ)
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明暦の頃出現した勝山という遊女が行ったのが始めといわれています。
伝承によるとかなり男勝りの人物であったらしく、それまでおしとやかに内側に踏み出していた八文字の足を外側に踏み出し、かなり大胆な歩き方で評判をとったとあります。
外八文字
- ■歩行方法
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基本の外八文字です。外を回って、足が地面に八の字の形で置かれることから、「八文字」の名がついたと言われています。
内文字は逆に内を回ります。
図は基本の足運びです。これに下駄の運びなどの装飾的な動きが加わるようです。
腰を落とし、かなり足を開いて踏み出すので、時には素足が見えることもあったようです。
高下駄を履いての外八文字にはかなり修練が必要で、美しく八文字を踏めるようになるまで三年かかると言われるほどでした。
道中で躓いたり、下駄を外したりすることは大変な恥とされ、下駄を外してしまった遊女は、茶屋についたら大盤振る舞いをしなくてはいけなかったそうです。
- ■外八文字の変化
- 現在、歴史関係の催し物で行われている外八文字は、かなり装飾過剰で、当時のものとはかなり異なっています。
天保年間あたりから、基本の外八文字の習慣が崩れだし、次第に現在の外八文字に変化していったと言われています。
私見ですが、道中の形態などもかなりの変化があるようで、芝居などの過剰演出が逆に本来の習慣を変化させていったのでは…と考えています。
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