【鳥屋の女たち】

吉原の遊女たちの職業病ともいえる梅毒についてまとめてみました。
※現在梅毒は抗生物質により完治が可能です。
はじめに 梅毒という病 江戸の梅毒 吉原と梅毒

はじめに

■鳥屋(とや)につく
鷹の羽が夏の末に抜け落ち、冬毛に変わる前の時期をいいます。
この時鳥屋にこもってじっとしている様子が、梅毒にかかり毛髪の抜け落ちている様に似ていることから、吉原などでは梅毒にかかることを「鳥屋につく」と言いました。

■梅毒のおこり
梅毒は十五世紀、琉球、長崎、境といった貿易港から日本に上陸しました。
現在では「梅毒」と表記されますが、初期の頃は「黴毒」とも書いていたようです。
梅毒の発疹が楊梅(ヤマモモ)の実に似ていることからこの字が当てられたともいわれています。
また、当時梅毒は「瘡毒」「かさ」などとも呼ばれました。

梅毒という病

■感染経路
そのほとんどが性行為によるものです。
稀に患者の分泌物、血液などに直接触れることよって感染する場合もあります。
また、梅毒に感染した妊婦から生まれた子供が先天性の梅毒患者となることもあります。

■症状
俗に「三週三ヶ月三年」と言われ、感染以後の期間によりさまざまな症状が現れます。
同じ病気でありながら、個人差があるのが特徴です。
分類期間症状
第1期 約1〜3週間後 初期硬結ができる。痛み・かゆみのない「でっばり」が感染部に発生する。
これが破れてビランや潰瘍になる。この潰瘍がとても硬いため、硬性下疳と呼ばれる。
ふともものリンパ線が腫れる。
痛みを伴わないために見過ごすことが多く、いつの間にか治ったように見えることが多い。
第2期 約2〜3ヶ月後 全身、主に顔や胴体に発疹(バラ色のためにバラ疹といわれる)が表れる。
首や肘、脇の下など、表皮に近い部分のリンパ腺が痛む。
発熱・倦怠感・頭痛などがおきる。
部分的に毛が抜ける。
免疫ができるために数週間で症状は消えるが、3〜6ヶ月後にまた再発することが多い。
皮膚が部分的に白くなる。
第3期 約3年後 丘疹や潰瘍の発生。
ゴム腫(ゴムのように弾力感のある腫れ)の発生。
第4期 約10年後 脊髄梅毒(神経痛・麻痺など)。
脳梅毒(痴呆・無気力・言語障害・けいれん・視覚障害)。
これらの症状は第2期から発生することもある。
先天梅毒 死産・流産の多発。
発疹・ゴム腫。
粘膜の異常により、鼻炎が長く続く。
視力障害・まひ・知能障害。
骨膜炎・関節炎・骨格、永久歯の奇形。 まったく症状の出ない場合もある。

■治療
ペニシリン等の抗生物質により、治療を行います。
現在ではこれにより上記の症状を発生させずに済むこともあります。
また、他人への感染なども予防でき、社会的な問題はほとんどありません。

江戸の梅毒

■江戸時代の感覚
江戸時代、梅毒に限らず、伝染病はほとんど治療方法のないものでした。
このため江戸時代以前には、独特の感覚があらわれます。
特に、疱瘡などと違い死亡率の低い梅毒は、むしろ病と気楽に向き合うという気持ちであったようです。
現在では考えにくいことですが、梅毒にかかってこそ男は一人前などと言ったり、梅毒の症状(ゴム腫などにより鼻が欠損したりする)を川柳などで笑いとばしていました。

 かさっかき おらが手本と 異見する

 とら息子 親の目を盗んで 鼻が落ち

このように、当時手の施しようのなかった病に対し、人々は笑い、親しむ傾向にありました。

■江戸時代の治療
・投薬
決定的な治療法がなかったのは、前述のとおりです。
当時梅毒の薬として用いられてきたのは「山帰来」(さんきらい)という漢方薬のみでした。
これは、サルトリイバラの根、土茯苓を主としたもので、効果はあまりありませんでした。
ほかには、患部の消毒といったような療法を行っていました。
享保十年(1725)には中国から水銀療法が伝わりますが、水銀は匙加減が難しいとされ、医者はその治療を行うことをためらっていました。
安永4年(1775)オランダ医師ツンベルグが水銀治療の指導を行い、ようやく水銀による治療法が始まることになります。
その後、日本でもさまざまな治療法の研究が行われますが、いずれも副作用などを伴い、決定的な治療法は昭和四年(1929)のペニシリンの発見を待たなくてはなりませんでした。
・信仰
流行病の信仰としては、稲荷信仰があります。
代表的なのは谷中の「かさもり稲荷」ですが、「笠森稲荷」(浄土宗功徳林寺)「瘡守稲荷」(日蓮宗大圓寺)の二カ所があり、「明和三美人」と呼ばれた「笠森お仙」がどちらの稲荷前の茶屋にいたのかで論争を呼んだこともあります。
現在大圓寺にお仙の碑があるとのことですが、実際にお仙がいたのは功徳林寺境内であるようです。

吉原と梅毒

「鳥屋につく」と言われた梅毒ですが、吉原でも、「鳥屋につく」ことで一人前の遊女であると言われました。
これは、梅毒にかかると自然に流産、死産が多くなったり、妊娠しにくくなるためで、遊女は妊娠を恥とする感覚が当時あったことが背景となっています。

また、鳥屋についていて毛髪が抜け落ち、うちしおれている様が美しい、ということまで言われていました。

梅毒にかかって一人前と言われても、治療法があるわけではありません。
高級遊女は自分の稼ぎから「出養生」といって寮(別荘)で養生することができましたが、下級遊女は悲惨なものでした。
これらの遊女は遊女屋のふとん部屋や行灯部屋に入れられたまま放置され、時には食事すら満足に与えられなかったこともありました。

さらに、運良く第2期で症状の止まることもありましたが、第3期に進むと、容貌も崩れ、遊女としての商品価値は皆無になります。
そうなると遊女たちは吉原を追い出されます。

夜鷹に身を落としたり、親元に返されたりするのはよいほうで、すさまじくは川や投げ込み寺に捨てられたりもしました。

吉原には、このように悲惨な側面もあったのです。

TOP